赤毛のアンの島から、こんにちは!
遂に、ようやく、ここプリンスエドワード島も雪が降らなくなり、本格的な春の到来です♪(*^^*)
家の中も暖房を使う日が減って来ていて、地味に嬉しいです。
さて、前回に続き、
どうやって海外移住を考え、実現したのか?
を振り返るシリーズ記事です。
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それでは行きましょう!
寿司職人養成塾、『喜代村塾』での学び
それまで勤めていた会社を辞め、まずは江戸前寿司店「すしざんまい」の『喜代村塾』に入塾し、寿司づくりを学び始めた夫。
同期は20人くらい(うろ覚え)で、経験者・夫のように脱サラして寿司職人を目指す人・退職後に趣味で学びたい方まで、経歴は様々でした。
講師は2名(もちろん現役バリバリの寿司職人)で、9月~12月下旬の3ヶ月間、座学から実技まで、みっちりと寿司作りについて学びました。
講師の方の1名はその後病気で亡くなられましたが、夫がとてもお世話になり、後にイギリス移住する際にご挨拶に伺ったとき、包丁を持たせてくれました。
夫が
「イギリスで働くことになったので、新しく包丁を買って行きます!」
と報告すると
「それならこれを持って行け」
と包丁をくれたそうなのですが、その際、先生は自分の包丁をあげるか一瞬迷って、やめた(別の包丁にした)らしいのです。
なので、夫は
「先生の、いい方の包丁が欲しかった・・!(*´Д`)」
としばらく未練がましく言っていました(おい!)
そして『喜代村塾』の修了後、夫は『すしざんまい』への入社を選択し、年末に有楽町店に配属されることが決まりました。
そこで夫は配属日までの僅かな日数を使って(確かクリスマスシーズンでした)、海外移住後のイメージを固めるために、当時の海外移住先として目標にしていたオーストラリアのシドニーに視察旅行に出掛けました。
そして現地の寿司店などを見て回り、
「このレベルなら何とか通用しそう」
という手応えを得て帰国し、『すしざんまい』有楽町店での勤務が始まりました。
江戸前寿司チェーン店『すしざんまい』での修業時代
夫は脱サラして寿司職人になったこともあり、いくら『喜代村塾』で寿司づくりを学んだとはいえ、現場では人前で寿司を握るレベルに到底及ばない、ペーペーの小僧でした。
ですのでひたすら先輩方の有難いシゴキに耐え(涙)、残業して自分の練習をし、家には寝に帰るだけの修行生活でした。
今回この記事を書くに当たり夫に当時のことを確認したのですが、昔のことすぎて(もう15年前です)、お互いあまり記憶が残っていませんでした。。
私は普通の会社員だったので土日祝日は休みでしたが、夫は飲食業界に転職したためシフト制勤務になり、しかも土日祝日や年末年始は稼ぎ時のため必ず働いていました。
つまりお互いの休みが一致する日は一日もなく、どこかに2人で出かけることも旅行することもなく、ひたすら月日が流れて行きました。
子供がいたら相当なストレスになったと思いますが、幸い当時は子供もいなかったため、お互いがお互いの仕事を淡々とこなす日々でした。
なので楽しい思い出も特になかったのがこの時期ですが、忘れられない大きな出来事が二つありました。
東日本大震災を経験
一つは、2011年3月11日に起きた、東日本大震災です。
当時私は目黒にある会社に勤めていて、夫はすしざんまい有楽町店で働いていました。
地震発生後、鉄道や飛行機などの交通が全面的にストップしましたが、バスは一部が辛うじて運行していました。
ただその時はスマホの回線もパンクして、夫に連絡しても全く繋がらない状態でした。
私は会社を出て目黒駅前のロータリーでバスを待ち、行き先が「有楽町駅」になったバスに飛び乗り、終点で降りて夫の職場へ向かいました。
既にすしざんまい有楽町店は閉店して扉も閉まっていましたが、中には人が残っている気配がしたため、私は入口の扉をドンドンと叩きました。
「どうしました?」
と当時の店長さんが出てきてくれたので夫を迎えに来たことを話すと、夫が既に店を出てしまったことを告げられました。
苦労してようやく夫の職場に辿り着いた私はショックを受け泣きそうになりましたが、店長さんは夫と連絡がつくまで中で待つように言ってくれ、閉店後の店内に入れてくれたのです。
カウンターに座らせてもらい待ち続けていると、1時間後にようやく夫と電話が繋がり、夫が私の職場の目黒に向かって歩いていることを知らされました。
私たちは完全に行き違いになっていたのです。
私は店長さんの厚意でお店の中で待っていることを伝え、夫には再び徒歩で戻って来てもらうことになりました。
そこから2時間近く待ったでしょうか、ようやく夫とお店で再会することができましたが、時刻は夜9時を過ぎていました。
二人で店長さんにお礼を告げてお店を後にしましたが、銀座や有楽町の街は帰宅難民となった人々でごった返していました。
それでも大地震後の混乱の中で夫と合流できた喜びは大きく、今でもあの日の夜のことははっきりと思い出すことができます。
そしてあの時夫が来るまでお店の中で待たせてくれた当時の店長さんには、本当に感謝しています。
恐怖のノロウイルス感染
そして二つ目の大きな出来事は、翌年のお正月後に、夫がノロウイルスに感染したこと(泣)。
当然ながら会社からは出勤停止を言い渡され、定期的な検査を受け、ノロウイルスが体内から検出されなくなるまで自宅待機が続きましたが、まぁこのノロウイルスのしぶといこと!!
既に症状は治まって体調も回復しているのに、職場に復帰するまで、約1ヶ月かかりました。
皆さんも記憶に新しいコロナウィルスでもそうですが、とにかく飲食店勤務でウィルス感染は致命的です。
この1ヶ月は収入も途絶え、一人前の寿司職人にもなれていない時期のことでしたので夫も気弱になり、
「まだ海外移住にも辿り着けていないのに、ここで倒れるわけにはいかない!!」
と気を引き締めました。
ようやくノロウィルスも去り、職場に復帰し、また再び修行の日々を送る夫。
そして遂に、一つの大きな転換期を迎えました。
調理師免許を取得、いよいよ海外移住に向けたスタートラインに
夫が脱サラして寿司職人になるに当たって、海外移住する前に、日本で寿司職人としてある程度の経験を積むことを選択したわけですが、
「どのタイミングで海外移住に挑戦するか?」
ということが次の課題でした。
修行中も世界中の寿司職人の求人に目を通していましたが、やはり応募しても相手にされないことが多かったです。
ですので、
飲食に従事して2年間経つと取れる「調理師免許」を一つの目途、目標にしよう!
と決めました。
そうして苦節2年、ようやく夫は「調理師免許」を取得することができました。
「よし、これから海外の寿司職人の求人に本格的に応募して行こう!」
ということで、応募の際に添付するために、夫はその時の自分の技術の全てを以て寿司を握り、写真を撮りました。
いよいよ、海外移住に向けたスタートラインに立てたような気持ちで、本当に嬉しかったのを覚えています。
続きます。